昭和54年12月13日 - 朝の御理解
【入力者: 末永 満】
御理解第92節
昨日もここを頂きましたですね。今日も又、この九十二節なんですけど。神のひれいが違うといういうならば合楽ではその違った格別のひれいが輝いておると言うことを思います。これはここにはもりもりの力によって神のひれいがと仰るが、もりもりの力とは今日は私は思いません。何か特別な神様のお計らいがあってのことであろうと。ですからいうなら神のひれいが特別の神様の深い思し召しから合楽教会がまぁ、いうならば(こくぜん)としてと言ったら一番適切思うんですね。もうあっという間に瞬く間に合楽教会の存在というものはまぁ、良い悪いにつれてまぁ、輝き出したんです。これはとてももりもりの力によってと思われない。特別の神様がもう千年も万年も前からね、合楽教会の(はっしょう)。そして合楽教会の進展というものは神に願いに願われておったものであろうとこう思うのです。
いつも言われておりますようにここの地名と言いね、天神橋と言い(?)天神と言いそういう中にいうなら私のことをまぁ、天神というように表現して下さってこの私の着ておる紋付は全部あの天神様の(方)と同じと。いうようなことがこうできておる。勿論私の方の梅は梅鉢でしたけれども。その梅鉢このわがあってはこうかごいがっては大きくなれない。限りなく大きくなるためにと、これはもう二十五、六年も前、椛目時代に頂いてたから私の紋だけはこんな紋になったんです。ね。
どこまで大きくなりゃ分からない。いや、そういう願いを合楽には天地金乃神様は金光大神を通してかけておられる。おったのであろうとしか思われない。ね。ここのいうなら善導寺、椛目、常持、合楽といったようなことなんかもちょっととってつけてもったものではないということ。ね。
●2【昨夜は私は一晩中私自身が海外布教にアフリカ(?)(?)言葉も何も分からないところにもうそれこそ何ていうですか。それこそまぁ、生き生きとして瑞々しい心でその行って、もう行ったその日からどんどん布教ができておるといったような。言葉が分からないからあのこうまぁ、いうならお広前に黒い毛氈引いてある。こちらには白い毛氈の二つ。それでお参りをして来るそのまぁ、黒人の人いろいろの人がありますが。参ってくるとこの黒の毛氈の上に座らせた。そしてもうこう立ちなさい。もう立った時には黒がなくなって白になっておるというようなあの状況を頂いたんです。】
だから結局ある言葉いらん。黒の毛氈の上に座らせてそして毛氈、黒の毛氈から立ち上がって白の毛氈になった時にはもう黒がなくなっておる。いわゆる、(げだつ)である。ができる程しの何か特別な神様の働きをそこに何か夕べは感じさせて頂く一晩でしたけれど。
今日は又、この九十二節を昨日と同様頂いたんですけれども。今日はだからそういう意味合でね、合楽のひれいは教会長がえらいからのひれいじゃなくて、何かそういう神願いがあってのことだというふうに思うです。ですからねそのひれいにお互いがよくするということ。又、そのひれいを残していくということ。我が身に受けてそのひれいを又、残しておく。
昨日は正教先生が夕べ沢山あの御理解、これここの御理解は毎朝(?先生)によって集録されておりますね。御承知のようにもう三十年間久保山先生から次々その代が代わって現在では(?先生)が誰も残せたもん、残さねばならんと思いよったのではないのだけれども残っておっておる。最近ではテープがもうそれこそもう(?)なもんですねあのテープが残っておるということが。ね。又、最近ではあのビリグイでテレビで見れるようにそれこそお話だけが残るんじゃない。私の様子までも残せれるというようにね。あれ何かでもほんとに誰がお供えしたか分からんようなことでしたよ。あのビデオを撮るあの機会何かでも。そして残っていっておる。だからただことじゃない。合楽の信心というものはただことではない。ね。
いうならごひれいによくするだけではなくて、いつの世までにも残しておこうとするその残すという働きがあっておる。昨日正教先生が持って来たのは月次祭と大祭のがこんな沢山しよる。私はこんなもの(?)することは昨日初めて知りました。(?先生)それをまぁ、やってやっておってたらしいですね。もうあますところがない。月次祭のも大祭のも勿論日々の御理解。まぁ、度々の霊祭は霊祭の御理解を霊祭の御理解で別に集録されていきよる。だからそこに神様が何か大きな願いをかけらてのことであるということを合楽にご縁のある者は思わなければいけない。
昨日も美登里会で安東さんがあの発表しておられました、久留米の。今度御本部参拝であの大牟田のご信者でお二人その合楽教会に安東さんという人がおらるからもうぜひ合うて下さいと。そしてその安東さんにこのお初穂をことづけて下さい。もう兎に角あれだけ沢山のことですから合おうと思うて合うことじゃないけれども、そういう言うておられる人がそこに安東さんがおられたち言う。もうそのことづかってきとる人がそれこそことづかっておる人が涙を流して神様の一分一厘間違いのない恐れ入ったと言うて泣かれたという話をしておられました。私はこれは合楽のひれいによることだと思うです。ね。
昨日の川上さんのいうならば、あの(?)も知らない合楽に参ったこともない人がこれは合楽の御建設費にと言うてその現金でその五万円ことづけられたといったようなこと。ね、昨日のお話でしたから。兎に角合楽のごひれい(?)。ね。ですからそういう合楽のならごひれいというのはここではもりもりの力が違うからひれいが違うと言うておられるけども、私の場合はここの場合がね、先生が偉いからお徳があるからのひれいとは自分自身も思うてみて思うんです。これはただならない合楽にかけられる神様の願いというのはね、二十年三十年前に合楽がいうならば、できるといったようなことはです、それこそ(こくぜん)として合楽教会が誕生。そして日勝り月勝りそれこそ年勝りにおかげを頂いておる。まだ十六年というものにねもうこういう大きなお教会ができただけじゃなくて五年祭の時にはあの新会館ができるしね、まーだ十五年の記念祭も来ないのにね、それこそ合楽としては大事業であろうあの信徒会館の建設、大坪家の礼拝堂の建立ね。教職舎。私は思うんですけども、教職舎が三階立てでしかもあの(?)教職舎はまずどこいたってないと思うですね。
そして引き続いて又、合楽教会の奥城建立ということになるでしょう。ところがそのことがね、例えば私の信心のひれいによって行われておるとどっちにしても思われない。これはもう千年も万年もいやもうそれ以前から合楽教会がここにできてそして世界万国にです人間氏子の総助かることのためにね、合楽理念が誕生し合楽理念をもってするならばどういう海外布教でも言葉が分からなくてもどういう土地柄が違うところであってもね、黒からもう立ちところにね、黒の毛氈上から白の毛氈の上に変わっていける程しの何か働きが起こってくるんだと、起こるんだと。まぁ、これは一つの実証が南米布教です。ね。
ですからどんなに思うてももりもりの力が違うからのひれいではない。これは特別な神様の願いがあってのことだということを思うです。それでならそのひれいは神様が残しておかなければらない。というのが今、申しますようにね、ここでいうならば、私が皆さんに聞いて頂いておるのはもうそれこそ漏れることなくね、テープにビデオにね又は、それを書き残しておくというものの上にです、残っていっておるといったようなこともこれはこれはある意味前代未門ではかろうかと思います、のことだと思うんです。
だから私を始め皆さんがそのごひれいによくしなければならない。よくすることのためにもう一遍昨日の御理解を思ってみらなければいけない。ね。ならよくするということはどういうことのだろう。ね。毎日日参しよります御理解を毎日頂きよります。
これはもう毎日の私の実感ですけれども、御祈念を終わってここに座らせて頂いて何か胸がこうドキドキとするような感じがするんです。これは御神前にあの四時にぴったりにね。今日は何かもう四時をきっ、四時になっても襖が開かんのです。だから襖を開けてこうあのと同時にまぁ、こちらへちょっと遅くなっとったらしいです。ね。もう何秒間のそのことでも私の心の中にはもう御神前に向かっておるその向う姿勢というものはそれこそ胸がドキドキするようなものを感じながら御神前に向かづきます。そしてここへ座らせて頂いて又、あの教典を開かせてもらう時にね、今日はどんな御理解を頂くだろうかと思って、胸はドキドキです、本当ですよ。ね。
私が皆さんに伝えておるという成る程この話は残しておかなければならいならないという神様の働きがあるという程しものを皆さんは浴びるように毎日頂いておられるわけですからね、それによくしなかったらもったいないです。ね。ただ聞いてのただ聞いただけでそれが血にも肉にもならんならどういうことになるでしょう。ね。
今日は私は電話でお届けのあった方達のほとんどにまぁ、申しましたことでしたけれども、あなた方は電話でお届けされてね、毎日日参できないけれども今日の御理解にはね兎に角参ったこともない合楽にはまだ「おかげの泉」だけでご縁を頂いておるという人達がもう(ふじ)と言われた病気が次々とあのご、あの「おかげの泉」を繰り返し繰り返し読むことによっておかげを頂いておるという程しのお話が今日の御理解の中にあったんだ。あんた方はどうですか。電話をかけておれるが、あの「おかげの泉」は読み返ししよなさるですかって昨日私皆申しました。ね。
だからそういうね、ほんとに読み返し聞き直しさせて頂いて身につけていくことに本気になってためにはやはり今日はどげなん御理解を頂くじゃろうかと自分に頂けれるその御理解がね、そんな気持ちで御理解に接しなければならないということは、なら今申しますように神様がこれは残しておかなければならないとしての働きがいっぱい。私が話したことをテープにとっておきなさい。ちゃんと書き写しておきないと、三十年間この方言うたこと一遍もないです。ね。もう自然(はっしょう)なるんです。別いつか誰かがそういうの働きが起こっておるんです。ね。
昨日御本部から帰ってのと教会の月次祭の御説教を昨日又、改めて美登里会の方達と一緒聞かせて頂きましたが、ほんとにまぁ、つかれにつかれて帰ってきとりますけどもこういうような有り難いお祭がもう引き続きに出て来てこの教話何かといったようなものがです、とてもただことじゃはないなぁと、思って聞きました昨日も改めて。(?)十日の月次祭の夜の教話を。ね。ですからそう、もうおかげをおかげにあの執着にせずにですね、ほんとにあの信心教え、教えに執着する気持ちが合楽の人達は場合です、私はいると思うんです。今申しましたようなわけでなら残されたり又は、そういう働きがあっておるという事実から言うて思うてそう思う。
私は毎朝この教典感話をです、今日は一応何節をする。なら昨日も九十二節じゃったけんでとても今日も普通に人間心でできることじゃないです。かんながらなことです。そして今日、御理解を頂いて改めてね、教会のいうならひれいというものは教会長のもりもりの力によって違うと言われるけれども、合楽の場合は違う。合楽の場合は教会長には力はないけれども、これは神様の特別な働きがあってのことだと思うとです、あれは皆さんが頂いておられる御理解がほんとに血に肉になりよらんならばもったいないということなんです。
昨日私はちょっと久留米までちょっと私が行かなければならない用件があってちょっと出ましたんです。したらそこにあの四斗樽のこもづちの御神酒がもう報徳祭のお供えとしていうなら、でしょう来てるわけです。それで帰ってから、あのそのお供えのお届けしてあるだろうかと思うて、神様に直ぐお届けさせて頂きましたらね、何とあの四斗樽このふちにですねもうまぁ、【あれが金の鈴というのであろうかと思うように金の鈴がずらっとかかっとるところを頂いたんです】、あれに。どういうことだと思うですか。ね。例えば皆さんもここに入ってこれらる時に、ほーもう先生が来とるとこう思われるでしょう。あの横を通ったらプーンといわば、朝から(?)匂いがするでしょう。その匂いを感じながらはー、もう(?)来とると思うてもう報徳祭のことをが皆さんの心の中に何となし響くでしょう。はー、もう報徳祭の準備が。さー、私共もジーとしておられないというなものがそれこそ金の鈴の音色にみたようなものがあの(?)周囲から起こっておるんです。神様のひれいです。ね。はー、これはもう大祭ぞ。しっかりせんか。しゃんとせんかと言われないけれども。と言わんばかりにですいうならば、早々と(?)のお供えが来ておる。神様にそのことをお届けさせて頂いたらあの、の周りにねこれが金の鈴だろうかと思うような金の鈴がごさがっておるところを頂いた。勿論お供え(?)(?)真心もあるでしょうけれども。
合楽全信奉者に対して金の鈴、鈴の音色のような神様のお声をもっていうならば、報徳祭のいうならば、何て言うでしょうか。もう雰囲気をですね、さーというような神様の思いというか願いのようなものを聞く感じがいたします。皆さんそうでしょうもん。もし皆さん感じなさらんとするならば、皆さんの信心はちょっと可笑しいです。ね。ですからもう大祭の準備が始まった。さー、皆さん(?)といったようなものができて神様の願いに応えることにもなるわけでしょうけれども。ね、そういう例えば、一つのこれは人間の演出ではなくて神様の御演出なんです。だから神様の御演出に私共もそれに寄らなければ。それに(?)してもらわなければ。よくす、よくしなければ。ね。いわば、合楽にご縁を頂いている値打ちがない。
特別のいうなら、教会長が偉いからのひれいではなくて特別神様がそういうひれいが教会の隅々まで起こっておる。そのひれいによくさせて頂く。ね。それこそ浴びるようにその信心を今こそ頂いておかなければならない。そして又は、残しておかなければならない。ためには自分自身が頂いておかずして残しておくこともできませんね。
今、合楽ではそういう意味においての浴びるようなおかげの中にあるのですから。それを浴びておる実感をです、いうなら胸踊らしてね、今日の御理解はどういう御理解じゃろうかのと。と、まぁ夫婦で参るなら夫婦で話し合いながら今日の御理解の頂きとこはあそこでしたバイと、いったようなものを今日一日なら一日の上に頂き現していかなければね。折角の合楽の神様そうした働きを銘々の信心の上に受け止めることができんと思うんですよね。どうぞ。